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やりがいとは
ビジネスに役立つ哲学6:仕事にやりがいは必要か
「仕事のやりがいは何ですか? 」。評価? 給料? ポスト? 何を「やりがい」とするかは人それぞれでも、人生の大半の時間を費やす仕事には、何かしらの「やりがい」を求めたくなるのもの。だが「やりがい」とは求めれば見つかるものなのか? もし見つけることができなかったら、人生は、仕事は、つまらないものになってしまうのか。
「やりがいは?」などと考えるよりも 仕事ができること、役に立てることこそ喜び
「やりがい」ですか。わたしには馴染みのない言葉ですね。わたしたちの時代には、問題にすらならなかったことが、あなたたちには大きな問題になっているのかもしれません。 あなたが受けている評価や報酬、そしてあなたに約束される将来。やりがいとはこういうことなのですね。そして、あなたがこれらのことに満足しているとき「やりがいがある」、一方、不満があるとき「やりがいがない」となるようですね。 とはいえ、やりがいがある仕事をしている人は、「やりがい」など問題にしないでしょうし、脳裏から「やりがい」という言葉が離れないということは、すなわち今の状況に不満があるということでしょう。 さて、あなたは一体、何を望んでいるのでしょうか。正当な評価ですか? 確かな未来ですか? しばしば、人間は満たされていることに気づかず別の何かを求めてしまうものです。正当な評価や、確かな未来が約束されているにも関わらず、ふとした拍子に不満をもってしまうのです。というのも、わたしたちは満たされていることを当たり前と感じて意識しないからです。 わたしがつくった寓話に『羊飼いと海』という話があります。 何頭もの羊を飼い、安定した生活をしていた羊飼いが、浜辺に打ち上げられた沈没船の宝物に出合ってしまいます。彼は宝探しにのめり込み、これまで蓄えた財産を宝探しに費やします。果たして、一文無しになり、下っ端の雇われ羊飼いとして、やり直さなければなりませんでした。 満たされていた生活を当たり前と感じ、別の何かを求めてしまった羊飼い。 これまでの自分を思い出してください。「やりがいは?」などと考えるよりも、仕事ができることや、役に立てることを喜んでいたあなたがいませんでしたか?(ラ・フォンテーヌ)
「やりがい」があるとすれば キミが残した足跡こそ「やりがい」ではないか
もしキミが、仕事に対するモチベーションを「やりがい」に求めているとしたら、注意しなければならない。「やりがい」という言葉に、キミの不満がにじみ出ているぞ。 「やりがい」という言葉によって、キミは何を求めているのだろうか。より高い給料か? より高いポストか? より責任ある仕事か?......、危うい。 人間の想像力というものは、得てして自分の身の程をわきまえずに暴走してしまう。キミの傍らに、真横にある崖にまったく気づかず楽しそうに歩いている男性がいるとしよう。そこでキミは彼に教えてやる。「ほら、あなたの横は崖ですよ」と。その後も彼は笑いながら歩けるだろうか。足がすくみ動けなくなるだろう。 しかし、彼が歩いている道の何が変わっただろうか? 何も変わってはいない。変わったのは、「崖がある」ことに気づいたことだけだ。しかし、その崖の先はどうなっているのだろう。断崖絶壁なら、ゆっくり引き返せばいい。もしかしたら、急な崖と見せかけて、五十センチもない高さかもしれない。しかし、彼は「あなたの横は崖ですよ」と聞いただけで、その高さも確かめないまま、動けなくなってしまったのだ。これが人間の想像力だ。 もちろん、キミと同じようにわたしにも想像力がある。お互いに、想像力なるものに翻弄されないようにしようじゃないか。そのためにすべきことは、地に足のついた行動を心がけることだ。 すぐ横に崖があったとしても、今まで自分が歩いてきたのは地面だ。これは、キミの仕事にも通じる。頼りにすべきは想像力ではなく、キミが実際に歩いてきた道だ。 「やりがい」があるとすれば、まだ見たこともない何かが「やりがい」になるのではないだろう。キミが残した足跡が「やりがい」になるのではないか? キミが歩いてきた道だけが、その先を保証してくれるのだ。(アラン)
頭で思い描いた「やりがい」なんてものより 全身で感じる自分の感覚を信じろ!
与えられた仕事が不満なのか? いいだろう。そういうことなら、キミが望む仕事をやってみればいい。だが一言つけ加えておこう。自分の能力以上の功名心や野心に惑わされていると、自らを死地に追いやる危険があると。 私は、私という一人の人間を信じている。私の能力は、私が一番よく知っている。生死に関わる戦地において、能力以上の野心を抱いていたら、私は死んでいただろう。世間でもてはやされている価値観や、本で学んだ必勝法に助けられることもあるが、それは全体のごくごく一部だ。むしろ、私は自分の感覚を信じる。体の全感覚を信じる。 キミたちの仕事は生死に関わるものではないだろう。だが、物事を明らかにするためには、極限状態を想定してみるといい。キミはその仕事に命を賭けられるだろうか? 「やりがい」なんていうぼんやりしたものを求めて人生を危うくしていないだろうか? 頭で思い描いた「やりがい」なんてものにキミの役があるのではない。体を動かせるところにキミの役があるのだ。土壇場で頼れるのは「やりがい」よりも自分の体なのだから。全身で感じる自分の感覚を信じろ! (ラ・ロシュフコー)
大竹 稽 (Ootake Kei)
教育者、哲学者。1970年愛知県生まれ 旭丘高校から東京大学理科三類に入学。五年後、医学と決別。大手予備校に勤務しながら子供たちと哲学対話を始める。三十代後半で、再度、東京大学大学院に入学し、フランス思想を研究した。専門は、カミュ、サルトル、バタイユら実存の思想家、バルトやデリダらの構造主義者、そしてモンテーニュやパスカルらのモラリスト。編著書『60分でわかるカミュのペスト』『超訳モンテーニュ』『賢者の智慧の書』など多数。東京都港区や浅草で作文教室や哲学教室を開いている。
大竹稽HP https://kei-ohtake.com/
思考塾HP https://shikoujuku.jp/