ブックレビュー
『ゆっくり、いそげ』から学んだ不等価交換の価値
働く人の心に響く本:他者と良い関係を続けたいときに読む一冊
長期的な視点に立ち、他者と良い関係性を築くことは持続的なビジネスづくりのヒントにもなる。「絶版にしない」「著者を応援する」をモットーにロングセラー、ベストセラーを生み出してきた英治出版代表取締役社長の原田英治さんが他者と良い関係を続けたいときに読む一冊が『ゆっくり、いそげ』。
不特定多数ではなく、特定多数の人を大切にする
今回の選書者は『イシューからはじめよ』や『学習する組織』などのロングセラー書籍を生み出し続けている英治出版代表取締役社長の原田英治さん。そんな原田さんが他者と良い関係を続けるヒントをもらう一冊が『ゆっくり、いそげ』 本書は元マッキンゼーでコンサルタントをしていた著者がカフェオーナーに転身し、カフェを運営する中で考えた、人として大切にしたいことの理想と現実を語った経営論。著者が運営するカフェでは、顔の見える関係性を大切に、特定多数の人と丁寧なコミュニケーションを交わすことで、安定した商売を目指している。 『ゆっくり、いそげ』(著者:影山知明 大和書房)
島暮らしの影響で手にした本
原田さんがこの本に出合ったのは、2018年から約1年間島根県隠岐諸島に家族で移住していた時。仕事で東京と島とを往復する日々を過ごす中で、「著者の影山さんのことは知っていて、本を出版したことも知っていたけど、読んではいなかった。それが島に暮らし始めた頃に再び出合った」と原田さん。 特に原田さんの心に響いたのが「健全な負債感」という言葉。「健全な負債感」について、本書『ゆっくり、いそげ』にはこう書かれていた。 『「健全な負債感」という言葉に、ドキリとしたり違和感を覚えたりする方もいるかもしれない。確かに通常は「借金」という意味で使われることが多く、(中略)あまりよくないニュースで登場することが多い単語だ。だがここでいう「負債感」とは、相手との関係の中で「受け取っているものの方が多いな」「返さなきゃな」という気持ちを背負うこと。しかも、それは必ずしも義務感ということでもなく、本当にいいものを受け取ったとき、感謝の気持ちとともに人の中に自然と芽生える前向きな返礼の感情ともいえる』
島暮らしで感じた「健全な負債感」
「健全な負債感」が響いたのは、島暮らしの実体験と重なり納得感が高かったからだろう。島でのエピソードを交えながら「健全な負債感」について原田さんが説明してくれた。 「島暮らしを始めたころ、島での関係性を円滑にするための知恵として『お礼は3回言ったほうがいい』と教えてもらったことがある。例えばアジをもらって、その場でお礼を言う(1回目)。翌日、『昨日のアジ美味しかったです』と言う(2回目)、そして3回目はどこかでまた出会ったときに言う。3回目ともなるとお互いそこまで覚えてないかもしれないし、『先日のあれどうも』くらいかもしれないけど、最初のアジをもらうという行為も含めると、交流の機会が4回も生まれたことになる。人と人が4回交流したら普段すれ違ったときでも挨拶する関係になるんじゃないかな」 実際、原田さんは教わったとおりお礼を繰り返すことで島民との距離を縮めてきた。 関係性ができると「健全な負債感」が生まれ、東京から戻る際にその人の顔が浮かんで、「お土産を買って帰りたい」という前向きな返礼の感情が湧くという。 「その気持ちが大事だし、それが関係性をより深めることに繋がる」と話す。
お金ではない交換が関係性を活性化させる
原田さんは続けて 「『ゆっくり、いそげ』を読んで感じたことは、価値が同じではないもの(不等価)を交換する行為には、コミュニケーションの頻度が増して交流が活性化する効果があること。島暮らしでは、まさにこの不等価な交換であるお裾分けが日常的に行われる中で、人と人との交流が生まれ、良い関係づくりに役立っている。 お金が進化したのは顔を知らない不特定多数の人と交換する時に、価値を見える化して、同等のものとしてスムーズに交換するのに便利だったためではないか。1回の取引に便利である反面、関係性を深める交流になりづらい側面もある」 関係性を1回で精算しないしくみを、『ゆっくり、いそげ』のクルミドコーヒーは導入している。例えば"コーヒーを注文すると国産の高価なくるみを何個でも食べて良い"というものだ。不等価で受け取った時、「健全な負債感」を持つお客さんは、一人でくるみを何個も食べてしまうようなことはしない。著者の影山さんは、お店とお客さんの関係性のバロメーターとして、くるみの減り具合をみているそうだ。 良い関係が築けているときは、くるみはあまり減らない。逆にくるみがよく減るときは、サービスを見直したり、お客さんへの接し方を変えるそう。目に見えない関係性をくるみで測り、特定多数の人と良い関係性を築くことで安定したビジネスを目指す様子が本書に描かれている。
長い関係性の中で帳尻がほぼ合う
他者と良い関係を続けるための大切な視点として、原田さんは収支のバランスについても目を向ける。 「価値が釣り合っていないものを片側だけが負担し続けると、それは『健全な負債感』ではなく『不健全な負債感』となり、その関係は破綻してしまう。関係が長く続くということは、価値の収支がどこかで合っているということ」 「短期的ではなく長期スパンで価値の収支を合わせるバランスを身につけたい。古くからの日本の風習では、人は頂いた物だけではなく、してもらったことも記帳していたという。関係性を続けるために『健全な負債感』を請け負う余裕があった。ビジネスにおいても等価交換や短期的回収を念頭にコミュニケーションするのではなく、『健全な負債感』をもって相手と長期的なコミュニケーションをすることで、長期で収支の合う経営が可能になるのかもしれない」 そして最後に原田さんはこう語ってくれた。 「島で暮らす中で、80歳過ぎの大先輩に、大切な文化とか受け継がれてきた知恵みたいなものをもらう機会がたくさんありました。ただ、文化や知恵と同じ価値のものを返すことは難しく、返したくても返せないし、頑張っても受け取ってもらえない」 だからロングスパンの贈り物を受け取ったときには、未来にペイフォワードで返すしかないと心に留めているそうだ。
原田 英治(Harada Eiji)
慶應大学法学部を卒業後、アンダーセンコンサルティング(現 アクセンチュア)に入社。家業の印刷業などに従事した後、1999年に妻と英治出版をさいたま市で創業。2004年、本社を渋谷区恵比寿に移転(~現在)。2012年、EIJIPRESS Labオープン。2018年、EIJIPRESS Baseオープン。趣味は、囲碁、トライアスロン。2018年度海士町親子島留学。第一カッター興業株式会社(東証プライム)社外取締役、公益財団法人かめのり財団理事、学校法人軽井沢風越学園評議員。
萩原 亜沙美(Hagiwara Asami)
海士の風 出版プロデューサー。大学卒業後、京都にまちづくり系NPOを共同で立ち上げ、2010年に海士町へ移住。海士町のスローガン「ないものはない」を念頭に、島にないものを仲間とつくりだす。生きる力と幸福度が高い。
海士の風(あまのかぜ)
辺境の地にありながら、社会課題の先進地として挑戦を続ける島根県隠岐諸島の一つ・海士町(あまちょう)。そんな町に拠点を置く「海士の風」。2019年から「離島から生まれた出版社」として事業を開始。小さな出版社なので、一年間で生み出すのは3タイトル。心から共感し、応援したい著者と「一生の思い出になるぐらいの挑戦」をしていく。