ブックレビュー

2022.10.04

ドキュメンタリー小説『破獄』は"人を人としてみる"ことの大切さを思い出させてくれた

働く人の心に響く本:人と向き合うときの指針にしている一冊

人は人を肩書や能力で判断することが多い。一方で、たった一人でも自分のことを見守り、応援してくれる人がいれば頑張って生きていける。高校時代の恩師の一言に今もエネルギーをもらい続けているという、一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォーム理事・会長の水谷智之氏にとって、人と向き合うときの指針にしている一冊が『破獄』だ。

島根県にある人口2,200人の離島・海士町(あまちょう)で生まれた出版社「海士の風」は、顔の見える関係性を大切に丁寧な本づくりをしています。連載「働く人の心に響く本」では、海士町と共感で繋がり、様々な分野で活躍する"人生の先輩"が選んだ一冊を紹介します。

犯罪者を一人の人間としてみる

3_boo_005_01.jpg今回の一冊を紹介いただいたのは、元リクルートキャリア初代社長の水谷智之(みずたに・ともゆき)さん。リクルートで一貫して人材ビジネス領域に携わってきた水谷さんは、現在、全国の高校魅力化を主軸に、企業や地域の戦略アドバイザーも務めています。水谷さんが仕事をするうえで大切にしていることは、関わりを持ったすべての人が「かけがえのない持ち味」を発揮できるよう、助言し、伴走していくこと。

そんな水谷さんの「人と向き合うときの指針にしている一冊」はドキュメンタリー小説『破獄』(新潮文庫)。犯罪史上稀にみる4度の脱獄を成功させた無期刑の囚人の物語。食事で出される味噌汁で鉄格子を腐食させ、鉄壁を誇る網走刑務所も脱獄。要注意人物となった囚人は投獄される度に、より強固な独房に閉じ込められ、看守たちから非人道的な扱いを受けます。そんな脱獄囚の心を変えたのは、最後に服役した府中刑務所で出会ったある人物の存在でした。

『破獄』(著者:吉村 昭 新潮社)




高校時代、恩師の一言が生きるエネルギーになった

水谷さんは中学・高校時代あまり勉強ができず、いわゆる落ちこぼれの時期があったそうです。勉強ができないというだけで居場所はなく、周囲の大人からは「落ちこぼれ=問題を起こす生徒」と決めつけられ、冷たい目を向けられていました。当時はひどく劣等感と疎外感を抱えていたといいます。

そんな高校生活を送る中で、一人だけ水谷さんのことを見てくれた先生がいました。
「その人は日本史の先生で、面談のときに『お前の学力じゃ無理だけど、本当はお前のようなやつに教員になってほしい』と言われました。中学も含めて6年間で、唯一大人が俺という個人をみて期待してくれた言葉。いまだに忘れられないぐらい嬉しい一言です。この一言があったから、巡り巡って人材ビジネスの領域にいき、いまや全国の高校魅力化も含めて、一人ひとりが持ち味を発揮できる場をつくっているのかもしれない」
なぜ教員になることを勧めてくれたのか...、先生の真意まではわからなかったが、高校生の水谷さんにとって生きる力となったその言葉を、今も大切にしているという。




30代で心を病み、本を読み漁る中で『破獄』に出会う

その後リクルートに就職した水谷さんは、中高時代の劣等感と疎外感から、人に認められる存在でないと居場所がなくなるという恐怖を抱えていました。そのため20代は必死で働き、仕事も任されるようになったといいます。ところが役職もつき、部下を抱えるようになったある日、「あなたのように自分のことしか考えない管理職にはいてほしくないから、辞めてください」と、部下たちから突然非難を浴びます。
「自分の居場所をつくるのに必死だったから、人や社会に目を向ける余裕がなくて部下やメンバーに捨てられた。それでメンタルをやられて、30代のとき9か月間仕事ができなかった時期もある」と当時を振り返ります。

仕事や人と向き合えない時期に本を読み漁り、出合ったのが『破獄』です。本を読む中で、水谷さんは囚人が最後に服役した府中刑務所の署長に惹きつけられました。
署長が最初に囚人と対峙したとき、囚人は尋常ではない重さの手錠と足かせをはめられていました。署長は脱獄常習犯であっても、他の一般的な囚人と同様に手錠と足かせを外し、服役してきた彼をねぎらいました。その後も署長は彼に気さくに声をかけ、脱獄方法にも言及し、彼の特異な能力を認めます。いつしか囚人は一人の人間として接してくれる署長に心を開き、懸命に刑務所での作業に取り組んで模範囚となり仮出所に至ります。

誰もが警戒する極悪人であっても、一人の人間として向き合う署長の姿に、水谷さんは恩師である日本史の先生の存在を重ねました。




恩師を訪ねる

恩師のことを懐かしく感じ、三重県の山奥まで恩師に会いに行った水谷さん。訪問の折り、長年疑問だった、「お前のようなやつにこそ教員になってほしい」という恩師の言葉の真意を尋ねました。あまりにも昔のことで思い出せずにいた恩師もしばらく会話するうちに、「水谷は半分グレた生徒にも、いじめられている女子にも、同じように明るく挨拶してたから...、だから教員にと言ったのかもしれない」と当時を振り返りながら語ってくれたそうです。恩師は何気ない日常の中で、水谷さんの姿をしっかりと見ていたのです。

「自分は会社で居場所をつくるために必死に背伸びして、無理にパフォーマンスを出そうともがいていたけど、『破獄』の署長や恩師のように、ありのままの自分を認めてくれる人がいれば、人は頑張れるし、生きていける」とあらためて感じた水谷さん。それからは人にカッコ悪いと思われても、そのままの自分で部下たちと向き合うようになります。




府中刑務所の署長が指針

人と向き合うとき、水谷さんは次のことを自分に問いかけています。
「府中刑務所の署長が極悪人を一人の人間として扱い、接していたのと同じように、自分もできているだろうか、相手のことを決めつけてしまってはいないだろうかと、普段から問うようになりました。『破獄』の署長は俺にとって指針であり、目標です。100%相手のことがわかるわけではないけれど、わかろうとする人であること。そういうスタンスでいることが大事だと思う」

水谷さんはリクルートの社長を退任するときに、社員からサプライズで手作りの本をもらっています。その本には、水谷さんが社員一人ひとりと向き合い、あるがままの個性やかけがえのない持ち味を発揮してほしい...と願いながらかけた言葉(約500人分)が記されていました。常に一人ひとりを見ようとする水谷さんの強い想いが伝わってきます。
水谷さんから言葉をかけてもらった人たちは、きっと今でも生きる力をもらい続けていることでしょう。


水谷 智之(Mizutani Tomoyuki)

一般財団法人 地域・教育魅力化プラットフォーム 理事・会長。1988年に(株)リクルート入社。一貫して人材ビジネス領域に携わり、2012年より(株)リクルートキャリア初代代表取締役社長に就任し、20163月末退任。2007年から社会起業家育成にも取り組み「社会イノベーター公志園」の立ち上げと運営に携わる。2017年には社会人大学院大学「至善館」の理事・特任教授に就任。他にも経済産業「『未来の教室』とEdTech研究会」委員、内閣官房「教育再生実行会議」GW委員などを歴任。

萩原 亜沙美(Hagiwara Asami)

海士の風 出版プロデューサー。大学卒業後、京都にまちづくり系NPOを共同で立ち上げ、2010年に海士町へ移住。海士町のスローガン「ないものはない」を念頭に、島にないものを仲間とつくりだす。生きる力と幸福度が高い。

海士の風(あまのかぜ)

辺境の地にありながら、社会課題の先進地として挑戦を続ける島根県隠岐諸島の一つ・海士町(あまちょう)。そんな町に拠点を置く「海士の風」。2019年から「離島から生まれた出版社」として事業を開始。小さな出版社なので、一年間で生み出すのは3タイトル。心から共感し、応援したい著者と「一生の思い出になるぐらいの挑戦」をしていく。

作成/MANA-Biz編集部